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mypleasure物語

第一章 会社設立

この物語は、私、河内が平成9年6月に情報通信機器販売のFC、レカムジャパン(現レカム)に加盟したときから始まった。そして、レカムジャパンに加盟するときは、先輩や友人に相談するたび「そんなFCは怪しいよ」「独立なんてやめたほうがいい」とみんなに言われた。しかし、私は伊藤社長の真面目な人柄に惚れて、加盟することを決めた。

 当時、健康機器メーカーの営業課長で東海エリアの担当として愛知県一宮市に住んでいたが、創業と同時に住まいを妻の実家がある三重県四日市市に移した。FC加盟金、引越し費用にお金を使ったので、東京で1ヶ月間の研修を受けて帰ったときには貯金がまったくなかった。そして、四日市で借りたマンション(自宅)の一室を事務所にして営業を始めた。電話をしていると、1歳になったばかりの息子が部屋に入ってきてその声が相手に聞こえ「何処からかけてるの?」と疑われたり、飛び込んだ先が不動産業をされていて、名刺を渡すと「この(営業所)住所って、○○マンションじゃないか」と不審がられたり、飛び込んでチラシを渡そうとしているだけなのに「お前らみたいな詐欺師は相手にせん!」と言われることもあった。

 お客様に理由を聞いてみた。分かったのは、「NTTから点検に来ました・・・。」「無料の工事ですから・・・。」などと詐欺まがいのことを平気で話している営業マンが業界に多いということだ。私には独立前の営業マン時代から、営業姿勢でこだわっていることがあった。「正々堂々の営業をする。」と「どんなクレームでも、お客様から逃げない。」だ。私はこれで勝負していこうと強く思った。

 フランチャイズなので名刺には「株式会社レカムジャパン四日市営業所」と書かれていたが、実態は個人事業者なので、人を雇用するにしても社会保険などに加入できない。
しかし、一緒に働きたいという仲間が出来たので、開業4ヶ月目に法人にした。平成9年10月16日有限会社レカムエイト(当社の前身)を設立した。


第二章 経営理念

会社設立後、さっそく営業マンの採用活動を始めた。仲間が少しずつ増えて、あっという間に家族のような集団になった。常々「社員が友達と居酒屋なんかで、会社の話をしたときに友達から羨ましがられるような会社でありたい。」と話はしていたが、経営理念と呼べるようなカッコいいものがなかった。
そこで、京セラの稲盛さんを尊敬していたので、京セラの経営理念「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」をそのまま使わせてもらった。
現在は、「お客様にとって価値のある商品とサービスで、感動と満足を提供します」「全社員とその家族の幸福、取引先企業の繁栄、会社の繁栄を追求し、社会貢献を実践します」の二つだ。

 私は営業マンとして、2つの会社に勤務した経験がある。輸入家庭用品の専門商社と健康機器メーカーだ。この2社に共通していたことは、経営理念がない(あったかもしれないが、聞いた覚えが全くない。)、社員教育や研修がない、そして、クローズ経営という3つだ。そして、現在、1社は業務を縮小して残っているが、1社は倒産している。この貴重な経験を反面教師に、当社がどうありたいのかを表現した経営理念を掲げ、社員の成長が会社の成長と考えて社員教育や研修には惜しまず惜しまず投資し、会社は公器のものと考えオープン経営をしてきた。

そして、私は経営で一番大切なことは、経営理念を掲げて会社と社員のベクトル合わせをすることだと考えている。お客さまの役に立ち、喜ばれることとは?社内の仲間の役に立ち、どう貢献するのか?社会にはどのような形で役に立ち、貢献するのか?こういったことを深く理解して仕事をすることが、働きがいに繋がると考えているからだ。


第三章 運命のいたずら

設立以来、総務・経理の仕事をパート待遇で手伝ってくれていた妻は縁の下の力持ちという言葉がピッタリだった。いつも、私に叱られた社員を陰でフォローしてくれていたようで、みんなから「奥さん!奥さん!」と慕われていた。ほとんど毎日、かばん一杯の書類を家に持ち帰り、息子を寝かせてから夜中まで仕事をしていた。大雑把な私に対して、小さいことにも気を使って丁寧な仕事ぶりで助けられた。

 会社設立2期目で静岡支店を出店することも決まり、不安定な生活環境から将来に光が見え始めた頃だった。平成10年の秋、妻が右足のふくらはぎに違和感があると言い出した。会社から近くの整形外科で一度診てもらって、何もないと言われたけど気になるらしい。年末、県立医療センターで細胞組織を採取して調べてもらったら、悪性の肉腫だと言われた。

 何か良く理解できないまま、紹介状を持って三重大病院に二人で行くと外科手術が必要だから直ぐに入院だと言われた。入院期間は1ヶ月と言われたので、目の前のクリスマスと正月3日が終わってからにしてもらうように頼んだ。

 年が明けて4日に入院、5日に手術と決まった。5日は名古屋で社員研修だったが、気になって仕方がなかったので早めに切り上げて病院に駆けつけた。手術後に私だけ先生に呼ばれた。「病名は蜂巣状軟部肉腫です。ふくらはぎの病巣は切除しましたが、肺と頭蓋骨に移転しています。転移箇所が多いので手術は難しいです。」先生は淡々と話されるので、完治するのかと聞くと「わかりません。」と言われた。

 病室に戻って妻の顔を見るのが辛かった。何かはっきりしない悲しみを感じながら、自宅に帰ってインターネットで調べてみた。「転移した場合の5年生存率0%」頭の中が真っ白になった。

 「私の主治医は優一さんやから・・・。」私は妻に何をしてあげれるのだろう?奇跡を信じて、三重大病院に通院しながらも代替医療、民間療法にかけてみた。息子との時間をつくるために、仕事はやめてもらって息子を保育園から幼稚園に編入させた。

 家族旅行を兼ねて湯治場めぐりをした。家事が出来なくなってきたときは家政婦さんを頼んだ。妻と家政婦さんの相性が合わなかった。そんな時、夕食でスーパーの惣菜を家族で食べていると妻の母親が遊びに来てびっくりされた。もう病気のことを黙っていられなくなった。私からすべてを話した。その日から妻の両親が同居してくれて、家事と息子の世話をしてくれるようになった。

 平成14年7月5度目の入院。先生から「今回はもう帰れないと思います。」と言われた。社員にも黙っていられなくなったので、何人かに話した。これから会社には出れないので現場のことは頼むと伝えた。それから3ヶ月間病院に泊まって一緒に過ごした。

 奇跡は起こらず10月13日に妻は31歳で永眠した。通夜、葬式が忙しく過ぎて終わり、悲しみに暮れる間もなく会社に戻った。船井幸雄さんの本で読んだことのある「世の中で自分に起こることは、すべてが必要必然。どんなに悲しいこと辛いことも、それを耐えられる人間だからこそ与えられる試練なんだ。」という文章を思い出した。それから、自分に何度も何度も言い聞かせた。


第四章 崩壊の危機

会社に戻ると、これでもかというくらいに問題が次から次へと出てきた。幹部社員のモラルが地に落ちていた。心の病になるものが続出した。社員宛に闇金業者から取り立ての電話がかかってきた。

みんなの顔から笑顔が消えた。もう一度、笑顔いっぱいの会社にするための試行錯誤が始まった。

平成15年6月、インターネットで知った土屋経営の3KM研修を導入した。「個人・家庭・会社」バランスの取れた幸せの追求。私にも、みんなにも必要だと思った。
そして、7月には土屋経営中川常務の紹介でBE訓練に参加。人生の師となる行徳哲男先生と出会った。訓練中は涙が枯れるまで泣いた。妻を亡くしてから抑えていたものが一気に出てきた。心の中から熱い想いが込み上げてきた。『社員が感動し歓喜するような働きがいのある環境をつくりたい。日本一の感動カンパニーであるディズニーランドにも負けない会社をつくりたい。』

しかし、現場で狂い始めていた歯車は止まらなかった。

社員旅行で違法な行為を率先した幹部、集金したお金に手を出した営業マン、組織再編の真っ只中に独立していった幹部・・・。次から次へと問題が出てきた。

平成16年春、採用コンサルティングの会社と提携して、新卒の採用活動を始めた。採用1名という寂しい結果だったが、それでも、平成17年4月久しぶりの新卒社員を迎えた。17年度も採用活動を継続し、四日市支店と静岡支店をデザイナーズオフィスにして移転するなど、社員が働きがいを感じる環境づくりに本格的に取り組み始めたが、期首からの全社的な業績不振と営業マンの採用が上手くいかず、11月末に浜松支店、12月末に沼津支店を閉鎖した。

閉鎖後、暫くして不祥事が発覚した。在職中に幹部社員と営業マン2名がみなし法人として商号を持ち、当社の営業活動をせずに自分たちの営業活動をしていたのだ。給与泥棒だ。社員による問題が止まらない・・・・。やり場のない寂しさと怒りを感じた。


第五章 エピローグ

年末の支店閉鎖後、想像していた以上に社員の結束力は高まった。そして、業績は回復したが、第9期は設立以来初の赤字決算を出してしまった。

そして、第10期、新卒社員5名を迎えるにあたって、改めて「当社はどうありたいのか?」について考えた。

何日も経営理念と向かい合った。

平成18年5月1日、商号をマイプレジャーと改めた。

マイプレジャーの誕生である。

当社の最大価値は人財だ!ビジネスモデルや技術力だけが企業価値の優劣を決めるものではない。

お客様にとって価値のある商品とサービスで、感動と満足を提供し続け、社会に貢献し続ける企業でありたい。

そして、それを実現するのは「自ら喜んで、働きがいを感じて、行動するマイプレジャーな人財」であると確信している。


◆あとがき

 33歳で起業したとき、営業力には自信がありました。しかし、会社経営には全く自信がありませんでした。人を育てたことがない、簿記会計の知識は全くない、人脈もない、資金もない、本当に何もありませんでした。「成功したい」という想いと、二人のサポーターの妻と息子がいてくれただけでした。

 今まで、本当にたくさんのお客様に支えられてきました。そして、マイプレジャーを支持してくださる取引先様に、未完成な私と一緒に働いてくれる家族のような社員のみんなに、今も同居して家事や息子の世話をしてくれている亡き妻の両親に、「パパ、今日帰ってくる?」が口癖になってしまった息子に、お世話になっている皆さんに、本当に、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。 最後までお読みくださりまして、ありがとうございました。

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